国立感染症研究所

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SSPEの悲惨さと青空の会の思い

(IASR Vol. 36 p. 67-68: 2015年4月号)

亜急性硬化性全脳炎(SSPE)注1)の悲惨さは、やはり当事者の体験をお話するのが一番理解いただけるのではないかと思い、少し長くなりますが、まず我が息子、洸亮についてお話したいと思います。

我が家の次男洸亮は、現在17歳、高校2年です。1997(平成9)年7月7日、元気に産まれてきました。0歳の時に突発性発疹にかかり、病院に受診した際に麻疹に罹患しました。その時は10日程で全快しましたがその後、そのことが原因でこのようなことになるとは夢にも思いませんでした。

洸亮はすくすくと育ち、幼稚園から英会話を習い始め、年長から兄について野球を始め、小2からサッカーも始めました。また同じく小2から絵画教室にも通い始め、さらに小4からは吹奏楽部に所属し、アルトサックスを担当しました。習い事が増えていっても、一つも辞めることなく、月曜から日曜までの一週間、毎日毎日人一倍忙しい子供でした。その中でも友達と遊ぶ時間をしっかり作り、充実した毎日を送っていたと思います。今思えば、病気になることがわかっていて、元気なうちにいろいろやっておこうと、かなり急いでいたような気がしてなりません。

小5の9月、2泊3日の移動教室、運動会も無事終えたころから、少しずつ洸亮に異変が表れてきました。最初は何かいつもと違う…という位で、生活に全く支障がありませんでしたが、しゃべり方がおかしくなったり、家庭科の授業で針に糸を通すのに、糸に針を近づけて通そうとしたりと、段々行動がおかしくなっていきました。そして今までできていた算数もできなくなり、学校の先生から「お母さん、これはただ事ではありません。」と、お電話までいただくようになってしまいました。しかしその時には、私達は原因こそわかりませんでしたが、洸亮の異変は、充分認識していました。そんな矢先、早朝に大きな声をあげ、初めて発作を起こし、救急車で病院へ行きました。その時はすぐに意識は回復しましたが、私達は不安でいっぱいでした。そして後日、改めて検査入院をすることになりました。

検査入院時は、おかしな行動が増えてきたとはいえ、まだ本人も理解できていたので、毎日続く検査に「何で僕が…。」と泣いていました。そしてとうとう病気がSSPEであると確定し、医師から宣告された時のことを、今でもはっきりと覚えています。まるでドラマの一場面であるかのような光景でした。私の気持ちを察し、付き添いを代わってくれた主人も、かなり辛かったと思います。私は自宅に帰り、一人きりになったお風呂の中で、涙が溢れて止まりませんでした。

病気が確定し、SSPEが難病であることから、神経系の専門の病院に転院を希望し、現在の病院に移りました。転院してその日に、医師から外泊を勧められ、「今度病院に戻ってきたら、当分家には帰れなくなります。そしてもうすぐ食べられなくなるので、好きなものをたくさん食べさせてあげて下さい。」と告げられたのを、今でも鮮明に覚えています。それから家に戻り、洸亮のお友達を呼んで、食事会を開いたり、家族4人でお散歩に行ったりと、洸亮といる時間を大切に過ごしました。しかし外泊期限前に発作を起こし、救急車で病院に戻ってから、階段を転げ落ちるように、洸亮の状態は悪くなっていきました。

すぐに腰椎からのインターフェロン注2)治療を始め、12月中旬に脳室オンマイヤー注3)留置術を受けました。もうこの頃には何の反応もなく、洸亮は寝たきりの状態になっていました。そして年が明け、2月に胃ろう増設術も受け、3月に退院するための準備を始めました。

生活面でも、歩いて入院した子が寝たきりの状態で家に帰ってくるわけですから、それはもう大変でした。福祉車両、介護用ベッドの購入、また住んでいたところがエレベーターのない3階でしたので、1階への引っ越し、そして特別支援学校への転籍など、しなければならないことが山積みでした。

しかし大変だったのは洸亮、親だけではありません。洸亮には4つ上の兄がいます。発症した時が、ちょうど高校受験と重なっていました。私はずっと洸亮に付き添っていましたので、何もしてあげられず、一人でずいぶん大変な思いをしたと思います。しかし一つも愚痴をこぼさず、がんばってくれたこと、本当に感謝しています。

発症して6年が経ちました。2010年に髄膜炎を4回繰り返し、オンマイヤーからの感染とわかり、抜去手術を受けました。それ以降インターフェロン治療は腰椎から行っています。その頃青空の会の会報でTRH療法注4)をして状態良いという記事を読み、主治医にお願いし、中2の秋からTRH療法を始めました。それ以後少しずつ変化が表れ、声を出して笑うようになり、口から食べることができるようになってきました。現在もその状態を維持しています。しかし進行性の病気、いつまた悪くなるのか、不安と隣り合わせの毎日です。

SSPEは本当に悲惨な病気です。今まで元気に生活し、大切に大切に育ててきた我が子が、ある日突然発症し、数カ月で寝たきりになってしまうのです。目の前で見ている親の気持ちは言葉では言い表わすことなどできません。そして、患児の兄弟姉妹も、親ですらはかり知れない精神的負担を強いられます。このような、私達と同じ辛い思いをする家族がこれ以上出ることのないために、SSPE青空の会は、麻疹の恐ろしさ、SSPEの悲惨さを多くの人に知ってもらい、予防接種の大切さをこれからも訴え続けていきたいと考えています。麻疹の予防接種率が95%になればSSPEはなくなります。是非、医療、自治体なども、積極的に麻疹の予防接種率を上げる取り組みを進め、麻疹排除を推進していただきたいと思います。そして最後に、SSPEに罹ってしまった子供たちのために、早急なる治療の確立を切にお願いしたいと思います。

注1)英語ではsubacute sclerosing panencephalitisと表記され、頭文字をとってSSPEともいわれる。麻疹ウイルスによるゆっくりと進行する脳炎であり、麻疹に感染してから、数年の潜伏期間(多くは5~10年)の後に発病するという特徴がある

注2)ウイルスの増殖を抑制する薬剤の名称の一つ

注3)頭皮の下に外科的に設置される、脳室内に薬剤を送り出す医療機器

注4)遷延性意識障害や脊髄小脳変性症等の治療として甲状腺刺激ホルモン放出ホルモン(TRH)を用いる療法

 

SSPE青空の会 岸本裕子

 

 

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